おばあちゃんはママのママなのです
4月に下の子が保育園に入った。
そしたら、途端に病気ばっかり。上の4歳の子も含めて、毎週どちらかが交代で病気している印象。
嫁が働き始めたこともあり、仕方なく、うちの母親と嫁の母親に来てもらいながら、なんとか日々をやり過ごしている。
最初は警戒していた、上の子も、嫁の母親を「小さいばあば」と呼び、僕の母親を「大きいばあば」と呼ぶようになった。
体格というよりは身長でそう呼ばれているみたいだ。
息子が気付いた事実
昨日は嫁の母親が来て、今朝はうちの母親が来ることになっていた。
嫁が出勤し、息子たちと僕で朝ごはんを食べていた。
その時に4歳の息子がふいに
「ね~小さいばあばは、ママのお母さんなの?」と言いだした。
「え、なんでそう思うの?」
「だって、ママが小さいばあばに『お母さん』って言ってたから」
「すごい、よくわかったね!」
「じゃあ、大きいばあばはパパのお母さんなの?」
「そうだよ、よく分かったね!」
という会話をした。
そうか、そうだった。ちゃんと説明したこと無かった。
きっと息子は自分なりに「点と線」をつなげて、ばあば=パパとママのお母さんというところに辿り着いたのだ。
そう考えて、自分自身を振り返ると、けっこうあやふやなまま接していたことに気付いた。
たとえば頭がチリチリの親戚のおばちゃんとか、いつも酔っぱらっている親戚のおじちゃんとが、どういう繋がりの人物なのか良く分かってなかった。
おばちゃんはおばちゃんとして、そこに存在していたが、実は母親の従兄だとか、そういうのって聞かないと教えてくれないもんだった。
あと、自分が小さい頃におばちゃんと呼んでた人が、実は当時22才ぐらいだったことや、最近家を建て替えた叔父さんが最初に家を買ったのが26歳だったことなど、今になって、親戚たちの当時の年齢を考えると色々と思うことがある。
そんなことを芋づる式にずるずると思い出した。
それにしても、息子はよく自分で気付いたなぁ~。
子どものテストはドキドキすぎて自分でやった方がラクだ
先日、子どもがスイミングに通い始めた、ということを書いたが、土曜日に進級テストがあった。
この日は嫁の妹も来て、家族総出で見に行く。
最初に僕と息子が先発することになった。手をつないで歩いていると「何ももらえなかったらどうしよう」と珍しく弱気な発言をする息子。
「上手くいくことだけを考えろ!そうすれば絶対大丈夫だ!」とアメリカのボクサーのセコンドみたいなことを言ってみる。
「そうだよね、成功すると思えば成功するよね」と分かったようなことを言う4歳の息子。
二人して鼻息あらい感じで自転車に乗って、プールに向かい、いつもどおりに着替えて送り出す。
手に汗握るテストで息子がとった意外な行動
最初はいつものルーティンと同じ、すべり台とかで遊んでリラックス。その後にいよいよテストが始まった。
ボードをもったコーチが一人ずつ名前を呼び、3メートルほど泳いで、それから小さいバケツに入った水を頭にかぶる。
ぼーっと見ててもいいけど、こないだ誓ったように、真剣に応援すると決めたので目に力を込めて、一時も話さないつもりで見る。
がんばれ、がんばれ、と思って見てたら、なんとかバタ足で3メートルは泳げた。
次はバケツを受け取って、頭にかけろ、と思ったら肩越しに後ろにビシャーと流しやがった。そんで笑ってる。先生が再度バケツを渡すと今度はちゃんと自分の頭にかけた。
なんなんだ、あの感じ。意外と心臓強いな。
ずっと手を握り締めながら声を出さずに応援する。
そして、プールから出てきた息子は、笑顔で合格のバッチを持って出てきた。
やった、やったと二人で喜ぶ。
バケツの水を捨てたことを聞いたら「あれ、面白かったでしょう」だって。確信犯かぁ。
嫁は途中段階では「私は結果を気にしない」と言っていたが、やっぱり嬉しそうだった。
その後は二子玉川の「100本のスプーン」で祝賀パーティー。
ここはスープストックの新業態で、現状では、あざみ野と二子玉川にしかないお店。子連れで来ることが前提のようなところで、料理はたいていハーフサイズがあるし、離乳食無料なので、小さな子ども連れにはありがたい。ティータイムだったからか、周りも赤ちゃんなどが多かった。
それにしても、初めての我が子のテストは、本当にドキドキした。子育てをした人はみんなこういう経験しているんだね。
自分でやる方が楽だわ。でも、この歯がゆい感じがあるからこそ、上手くいった時は嬉しい。
決着をつける、というか、白黒はっきりつく世界って社会人になってから久しくみてなかったけど、これはこれでいいね。夢を託す親の気持ちが少し分かった。中毒になるわ。
これからもプレッシャーにならないように、子どもと一緒に喜びを共有してければいいなと思う。
こういうのがあるから、子育ては面白い! 目指せアニマル浜口だ。気合いだ!
子どものまっすぐな言葉にドキリとしました
2月から4歳の息子がプールに通い始めた。
スポーツクラブに行っているので週に1度で月に7000円ぐらいかかる。
恐るべき世田谷区。僕も小さい頃に通ってたけど、親はそんだけ払ってたんだね。
携帯1台と一緒だ。
それでもやはり泳ぎは上手くなって欲しいので、通わせることにした。
ガラス越しの息子に見とれてしまう
プールは土曜日のお昼になった。初めてプールに入った息子は、かなり怯えた様子。ちょこんと体育座りをして、みんなと一緒に座っている。
よく考えたら、そもそも自分の子どもが遠くで何かやっているのを見るのも初めてだった。しかもガラス越し。
子どもに笑みがこぼれると、こちらも思わず笑ってしまう。たまに上の方の親が座っているエリアを見て、こちらに手を振ってくる。こちらも手を振ると笑顔になる。
いつも部屋にいるときは、上に乗ってきて邪魔だなと思ったりするけど、少し離れただけで、違ってみえてくる。
毎週毎週、嫁と下の子と3人で、息子の泳ぎを見ていた。さすがに教え方が上手いので、だんだん打ち解けて、水にも慣れてきた様子。
気付くと教えることがルーティンになっていた。それと同時にこちらも飽きてきた。
そうなると、ついついスマホをいじっちゃう。周りをみると、すでに何ヵ月も通ってるであろう親はみんなスマホでゲームをしている。子どもなんて見ていない。
みんなそんな感じか。
「子どもは水につけろ」というけど、プールに入れておけば、子どもはごきげんだし、こちらは子どものかまって病から解放される。自由だ。そう思っていた。
子どもは何を不安に思うのか
その日は、嫁が体調不良で僕が一人で息子をプールに連れていくことになった。
急いで着替えさせて先生に預ける。僕は親の席に移動して、自分の席を確保しようとした。その前に温かい飲み物が欲しくなった。自販機は冷たいものばかりだった。
レッスンはまだ始まっていないので、外に買いに行くことにした。
席に戻って子どもの様子を見ながら、時間を過ごす。やがてレッスンが終わって息子が出てきた。
ずっとムスっとしていて、外に出て自転車に乗せようとすると、子どもが怒りだした。
「パパ、なんでいなかったんだよ!」
「え、見てたよ」
「最初の方だよ。いなかったでしょ」
「あ、ジュース買いに行ってた。ごめん」
「パパがいなくて、さみしかったぞ!」
ズキューンときた。
まるで往年の東京ラブストーリーのセリフのように、強めのトーンでいう「さみしかったぞ」は、寒い寒いと早く出発しようとばかりしていた僕の心にズキュンときた。
「ごめんね、最初の方?」
「そうだよ、あのみんなで座ってる時だよ」
そうか、あの知らない人と泳ぐときに、息子はきっと上を見上げて親の存在を確認して、安心してから泳いでいたんだ。
泳ぐところよりも、最初のあの時に居て欲しかったんだな。
僕はまたしくじってしまった。
次の週から僕は熱烈なストーカーのように息子が見える角度を見つけて、たとえそれが外からでも見るようにしている。
もうあんな気持ちにさせてちゃだめだ。あいつはがんばっているんだ。
それにしても、あの「さみしかったぞ」はすごい破壊力だったなぁ。大人になったらなかなか言えない、素直な気持ち。その素晴らしさを改めて感じた冬だった。
さて、明日はプールのテストだ。一生懸命応援するぞ。手もいっぱいふるぞ。さみしいなんて言わせないぞ。
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河口恭吾の桜は至高のパパソングだった
先週のしくじり先生に河口恭吾が「桜」の一発屋歌手として出ていた。
内容としては「桜ソングで一発当てたけど、それ以降ヒットが出ず、苦しんだ」という話なんだけど、いくつか面白い話があったので紹介してみる。
桜はもともとドラえもんとのび太の関係を歌った歌だった
・もともとはドラえもんとのび太をイメージして作った曲だった。「ドラえもんがそばにいて、のび太くんを笑わせるよ」という意味だった。
・森山直太朗のヒットで「他に桜の曲はないの?」というニーズから、河口さんのアルバムの曲が発見され、ヒットとなった。
・その後は出しても出しても売れず。2008年に出した曲は500枚も売れなかった。。
・桜を歌うのも飽きて、歌いながら「今日の晩ごはん何かな?」と考えていた。
・歌うのを止めて、別の曲を歌っていたら、音楽イベントの主催者から「詐欺だ」と怒られた。
・子どもが生まれた。すると歌詞の意味が変わった。
・僕は「パパ」で君が「子ども」になった。
・新たな意味をもらって、これからも桜を歌っていく
という内容で、最初の方は「日本人は桜ソングが好きすぎる!」とやさぐれた感じだったのに、最後の最後でグッと来る展開になった。
そして、改めて、パパ目線でこの歌詞を見ると、本当に名曲だなと思う。
以下が歌詞です。
↓
僕がそばにいるよ
君を笑わせるから
桜舞う季節かぞえ
君と歩いていこう
まぶしい朝は何故か切なくて
理由をさがすように君を見つめていた
涙の夜は月の光に震えていたよ
二人で
僕がそばにいるよ
君を笑わせるから
空のない街抜け出し
虹を探しに行こう
いつもそばにいるよ
君を笑わせるから
やわらかな風に吹かれ
君と歩いていこう
君と歩いていこう
君がいる
君がいる
いつもそばにいるよ
この番組を見た後に、子どもを抱っこしながら、桜が咲き始めたソメイヨシノの下を歩いている時に歌うと、涙で景色がにじんできた。
そう、実はパパソングって意外と無くて、しかも、こんなにしっくり来る曲は初めてだと思う。
父親って嫁よりも育児で役に立たないし、年代的には職場での責任が重くなって仕事がきつくなるし、それでも、子どもはかわいいから、ずっと一緒にいたいと思う気持ちがあって、そういうモヤモヤした時期に桜を見ながらこの歌を口ずさむ。すると泣けてくるのだ。
特にうちの下の子は桜の時期に生まれて、名前にも桜と入れているのでなおさらだ。
父親が子どもと遊べる期間なんて、実は3歳から10歳(小学校4、5年生)ぐらいまでの7年ぐらいしかない。
僕はアウトドアの達人とか、釣り名人とかじゃないから教えてあげられることは多くないけど、一緒にいっぱい笑ってあげられるように、そばにいたいと思う。
あ~今年は桜の下で何回も歌いそう。
小さなお子さんのいるパパはぜひ試してみてほしい。泣けてくるよ。
なんでみんな僕におもちゃをくれるんだろうと息子は言った
昨日の夜、リビングにいた僕のところに4歳の息子が近づいてきた。
どうやらミニカーをティッシュに包んだようで、それを5個も持ってきて、一つずつ「開けてみて」と開けさせる遊びがしたかったみたいだ。
「おぉ、かっこいいね!」など言いながら、全部開け終わって少しの沈黙があった後に「うちにはおもちゃがいっぱいあるね。なんでみんな僕におもちゃくれるんだろう?」と言い出した。
試しに「なんでだと思う?」と聞いたら「やさしくて、かっこよくて、あとママのお手伝いするからだと思う」と言っていた。
おおぅ。すげぇなと思った。
でも、これは本人が自覚している長所というよりは、親である我々がよくいう褒め言葉から来ているんだと思う。
それにしても、なんか驚いてしまった・・・。
とりあえず「正解!」と答えておいた。
自分が世界の中心ではないと気付くとき
長男はきっといま世界の中心は自分だと思っている。
でもそれはどこかで崩壊するものだと思う。たぶん小学校に入ったら。
保育園とか幼稚園は横並びだけど、小学校に入ると次第に能力の差が顕著に表れてくる。
勉強の点数とか、異性にもてるとか、足が速いとか。
ぜんぶ完璧な人は多くないから、どこかで敗北感をもつんだけど、その一方で自分の勝てるフィールドを見つけて、そこで仲間を作って、自分なりの「心の秘密基地」みたいなもので、楽しく過ごす時期がある。
でも、いつか自分は世界の中心ではないと気付く時が来ると思う。
僕の場合は自分が風邪をひいて休んだときだった 。
僕がいないとさぞ寂しいだろうなぁ
世界の中心は自分だと思っていた。
僕はクラスのお笑い担当というポジションと立候補による学級長という地位によってクラスの中で自分の立ち位置を得ていた。
クラスの中心にいる気になっていた僕だが、ある日風邪をひいて学校を休んでしまった。
次の日に登校する時、僕は歩きながら「きっとみんな寂しかっただろうなぁ」と考えていた。
授業中の笑いの量だって減ってしまって、きっと教室は静まり返っているはずだと。
でも、学校に行ったらみんな普通だった。それどころか誰も「大丈夫?」と声をかけてこなかったのだ。
おかしい、おかしいと思いながら授業も聞かずにずっと考えていた。そして、お昼休みを迎えた頃には気付いた。
きっと僕は世の中にとって、いてもいなくても良い存在なんだ、と。
その次に「じゃあ、死んでもいいんだ」と思った時期もあり、死にはしなかったけど結論は出た。結局、それは事実であり、僕がいなくても世界は困らないのだ。
死んでも一緒かぁと思ったけど、でも、だからこそ楽しく生きようと思った。
そこに至って、ようやく気持ちが楽になった。
だって、もともとプラマイゼロの存在なら、ちょっとでも誰かに良い影響とか与えれば、それはかなり儲けもの、というかラッキーな現象だからだ。
こうして僕は自分が世界の中心ではないことを知り、そのうえで自分の立ち位置を定めた。中二ぐらいの時だ(やっぱり中二は特別な年なんだなぁ)。
息子はいま自分が世界の中心だと思っている。
いつそれに気付いて、そのとき何を考えるのか。父親として静かにその変化を見守っていきたいと思う。
それしても、あいつは自分を「かっこいい」って普通に思ってるんだな。
すげーな。
わんぱくでもいいたくましく育って欲しい【虫出てきます】
うちの嫁は同い年なので、それほどジェネレーションギャップを感じることはないのですが、今日ふと「針すなお」と言ったら、会社の20代の女の子が分からなくてびっくりしました。
そういえば、2人目が生まれた時に、会社の女の子に「おめでとうございます。どうですか?」と言われたので「わんぱくでもいいからたくましく育ってほしいです」というボケを入れたのですが「そうですね」と普通に返されました。後で聞いたら全く分からなかったそうです。
嫁から驚きの連絡がありました
さて、お昼頃、嫁から写真付きで連絡がありました。
なんとお正月に嫁の実家の近くで捕獲して、虫かごに入れておいた、
かまきりの卵が孵ったようです。
しかも、すでに脱走しているとのこと。
わんぱくに育ってほしい、という気持ちから、子どものために持ち帰った卵ですが、
いざ本当に産まれるとどうしよう、、となります。
よく鳩を捕まえようとする人がいますが、ああいう人は捕まえてどうするつもりなんですかね?
とりあえず、ある程度逃がさざるを得ないかな、と思ってます。意外と孵るもんですね。
我が子をミュージシャンにしたいならこの絵本「ベンのトランペット」
ぼくの好きなアーティストに星野源と大橋トリオがいる。
優しい歌声と良い人そうな雰囲気、それでいて音楽的な深みもある。
日曜日の朝や読書の時によくかけている。
そんな二人には意外な共通点がある。
それは幼い頃に家でジャズに親しんでいたことである。
大橋トリオの場合は、父親が音楽関係の仕事をしており、高校生の頃に父親のもっていたジャズのレコードをききまくった時期があるという。
一方の星野源は、実家がジャズ喫茶ということもあり、幼い頃からジャズは非常に身近な存在だったそうだ。
星野源がテレビのインタビューで「家ではいつもジャズがかかっていた」と語るのを聞いた嫁は「ジャズを家で流さないと!」と言い出した。
そして、その時に「ベンのトランペット」を読み聞かせすれば、子どもは確実にジャズにはまるだろう。それぐらいクールなジャズが完全密封されているのが「ベンのトランペット」という絵本だ。
ジャズへの憧れが閉じ込められたクールな絵本
谷川俊太郎はけっこうな量の絵本の文を担当しているので、それを追っているうちに「ベンのトランペット」に辿り着いた。アマゾンのレビューは2件だが、いずれも5で満点だったのだ。
いざページを開くと、その白黒のクールな世界に驚く。
まるでブルーノート時代のレコードジャケットを見ているような雰囲気だ。
物語はトランペットを吹きたい黒人の少年ベンが主人公だ。
彼はいつもジャズクラブの演奏を覗いていた。シンガーの姿、ドラマー、そして、トランペッター。彼はトランペットもっていないので、口と仕草で吹く真似をする。
友人にバカにされてもそれを繰り返していたら、ある時、憧れのトランペット奏者に声をかけられ――。
この本はストーリーもさることながら、ジャズを演奏する人々のかっこいい白黒の絵にひたすら惹かれてしまう。
そして文集は絵を邪魔しないようにシンプルに書かれている点も好感をもてる。
かつて存在したクールなジャズの世界を、丁寧に梱包してタイムマシーンで現代に送ってくれたような、そういう世界感は本当に魅力的だ。
ジャズのレコードを収集して部屋に飾っている人に子どもが出来たら、プレゼントしたくなっちゃうような、そういう素敵な一冊だと思う。
この本を読みながらジャズを流したら、なんだか素敵な家族な気がする。おすすめです。
保育園児から言われた驚愕のパシリ指令とは?
こないだ子どもが夜中に水が飲みたいと言い出したんだけど、毎晩のことでその日はとくに眠かったので「よし、レモンって10回言って、言えた?ツバでた?飲んで、はい、寝るぞ」ってやってやり過ごしました。
よかった、良かったと思ったら、次の日に子どもが嫁に「ママ、レモンって10回言って」とやっていて、嫁が「なんでそんなこと知っているの?」となって「えっと、パパがね」となって、すぐに「ちょっとパパ!」となりました。生活の知恵なのになぁ。
保育園児から言われたパシリ指令
進級を嫌がった4歳の息子がいった一言に脱帽
先日、4歳の息子が通う保育園の進級お祝い会があった。
簡単なお遊戯をして、それを親がビデオに撮って、名前を呼ばれた息子がもじもじしながら「は~い」と元気に返事をする、とかそんな感じだ。
仕事を半休にして朝から出かける。早めに終わったので、ご飯を買って近くの公園に行くことにした。
息子が進級を嫌がる理由とは?
その時に息子を抱っこしながら、こんな会話をした。
「おめでとう。これでゆり組を卒業して、みかん組だね!よかったね」
「やだなぁ、ゆり組が良かったなぁ。ゆり組のままがいいよ、みかん組になりたくないなぁ」
「なんで?」
「だって、みかん組になったら形が変わっちゃうじゃん。いまのままでいいよ」
この気持ち凄くわかる。普通に進級するだけなんだけど、意外と人生でそういう場面っていっぱいある。
バイト先のメンバーと久々に会っても実は話題がない
バイト仲間と久々に会う。働いている時は楽しく飲めたのに、なんだかあの頃と違う。学生時代の仲間と会う、近況報告で時間が過ぎるけど、何かが失われていることに気付く。
結局、僕らは同じ空間で同じ時間を共有することで、分かり合える事がかなりあり、例えば学校なら「嫌いなクラスメイト」や「面白い先生」の話題でいくらでも盛り上がることができる。
だが、そういう対象が失われて、それぞれが自分の時間を過していくと、かつての仲良しメンバーが集まったとしても盛り上がるのは思い出話だけであり、現在の話をされても「ふーん、そうなんだ」となるだけである。時間や空間を共有していない以上、それは仕方がないことだろう。
つまり、一度バラバラになってしまえば、もう「形」が変わってしまうのだ。元には戻れない。
だからこその「一期一会」であり、一瞬一生(一瞬の積み重ねが一生)なのである。
ちなみに僕がそれに気付いたのはバイトをいくつもやって、振り返るべき過去ができてきた20代前半だったと思う。
あんなに仲良かった3人組なのに、なんか違うなぁとなることを繰り返してようやく気付いたのだ。
そんな世界の移ろいやすさを、息子がつかみ取っていたのかは分からない。
でも「形が変わるからやだ」という言葉にはその何か、萌芽のようなものが含まれている気がする。ちょっと分かっている、というか。人生の先輩としていえば、確かにその通りなのだよ。
でも、おまえそれ何で知ってるんだ、と何気ない会話に久々にドキリとしてしまった。
わかってるなぁ〜。