ブログは「心のサードプレイス」になる
2015年の11月27日にブログを始めてから約2ヵ月が経った。
アクセス数はアップダウンがありながら、右肩上がりで確実に増えている。
おかげさまで読者も59人となった。ありがたい限りだ。
あ、またあの人が読んでくれた、と感じることがすごく嬉しい。
その一方で、何万PV突破とか、収益が、とかいう記事に少し心がざわつく。いーなー、という気持ちもある。
そんなの関係無い、僕は書きたいことを書くだけだ、と思う一方で、果たして本音かな、と自問自答する時もある。
平静を保ちつつ、少しでもアクセス数が増えればいいな、という気持ちから、今日も更新している。
Webは紙よりもずっと残る
僕が初めて就職したのは町の新聞記者だった。そこから15年、ずっと紙の編集に携わっている。
まだまだ胸を張れるほど立派なことを成し遂げてはいないが、仲間たちが、畳職人になったり、ぶどう農家になっていく中で、いまも前線に立ち続けている。
それでいま改めて思うのが、僕が最初の頃に作った新聞なんて、すでに休刊となり、紙としては残っていないし、誰も読んでいない、という事実だ。
それでいながら、その記者時代に、文章修業のつもりで書いていたホームページの記事は、今も多くの人に読まれており、去年は15年越しに、はてなブックマークのホットエントリーに入ったりしている(一体何があったんだろう)。
つまり、Webの文章は紙よりもずっと残るし、検索システムによって新たな読者も生み続けているのだ。
そのことに気付いた時、ブログを書いてみようと思った。自分の記録、子育ての記録を残しておこうと。
ちなみにこのブログは家族や友人には教えていない。死んだ時には、発見されるかな、それはそれで良いと思う。
僕は自分の父親が僕を育てる時に、どんなことを考えて育てていたか知らないけど、少なくとも僕の息子たちは、このブログを読めば僕が何を考えていたのかは分かるはずだ。
そう、Webは紙よりも残るのだ。サービスが終わらない限り。
前のホームページは読みづらくなっているので、せっかくだから、すこしずつ15年前の文章を改修して、こちらに移そうと思う。まだいまでも読める物もいくつかあるので。
ブログが心のサードプレイスになっている
さて、そういう動機でブログを書き続けて、ひとつ分かったことがある。
それは、このブログが僕にとって「心のサードプレイス」になっている、ということだ。
子どもが生まれた時によく「自分の時間が無くなるよ」と先輩方に言われたが、それは事実だった。自分の場所も時間もない。座っていれば、子どもたちが寄ってきて、絵本を持ってくるから読んであげなきゃいけない。
それは別にいいけど、そのために嫁も僕も子どもの相手に忙殺されて、雑談というか、何気ない会話が減り、業務連絡が増えてしまった。
その日常会話からこぼれ落ちた、ささいな出来事や思いつきがある。それらは最初の子どもが生まれた4年前から、マグマのようにずっと地中にいた。だが、そこには出口がなかった。ブログを作って、それを言葉にして置いておくだけで、誰かが見てくれる。それだけで本当に色々とスッキリするのだ。
それはきっと「心のサードプレイス」と呼んでいいと思う(場所じゃないけど)。くつろげる空間というか、そういう存在になっている。だからきっと僕はペースが落ちたとしても書き続けると思う。この空間を維持するために。
人は本の内容を完璧に覚えていない
ぜんぜん違う形で記憶に残っていたのだ。本なんて読んでも忘れてしまう。だったら、本なんて読まなくてもいいじゃないか。そう思う時もある。
でも、自分の心の何かと共鳴した時に、その本は鮮烈に心に残る。例え記憶していなくても、印象としてその熱は心に残るのだ。
僕がブログでやりたいのは、そっちである。「いつか使える」と思って多くのブックマークを得たけども、結局は使われない情報よりも、心の熱を伝える。
後から読み返してもらえなくてもいいので、ふと読んだ時に、何か心がちょっとだけ温かくなるような文章。そういう物を書き続けていければと思う。
まだまだ立ち上げたばかりの未熟なブログだが、これからもご愛読よろしくお願いします。