世界はまだ油断してるから

4歳と1歳半の男の子ふたりの子育てを父親目線で紹介します

夫婦喧嘩中に4歳の息子が言った言葉にびっくりした話

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photo by César Augusto Serna Sz

こないだ朝から夫婦喧嘩をした。

内容は些細なことだ、前日の夜に嫁が作ったお稲荷さんを、朝お弁当に持っていこうとしたら「あたしのお昼持っていかないで!」と言われたので、「ケチ、いらないよ!」といって会社に行ってしまった。
 
そもそもこのお稲荷さんの油揚げの皮はおれが甘く煮たものだし、6個ぐらいあったんだから、2個ぐらいくれてもいいのに。。
 
となってしまったが、まぁいずれにしてもくだらない喧嘩だ。
 
とはいえ、朝から怒ってしまったので、帰ってきたら気まずい感じ。
 
なんだか家の中も変な雰囲気になっている。よく見たら洗濯物も僕のだけ取り込まれていない。。
 
こういう場合、謝ればいいのだが、なんだかモヤモヤとしたまま、時間が過ぎていった。
 
すると、4歳の息子がいつものように、ママにベタベタし始めた。
 
「ママ~かわいいね、肌がすべすべだね」と言いながら、手を触り始めた。
 
息子はいつもママにやさしい言葉をかけている。
 
「ママ、保育園から帰ったら抱っこしてあげるからね〜」「ママ〜髪がサラサラだね」など、常にその発言はスイートだ。
 
はぁ、いつものあれか、と思っていたら、この日は近くにいた僕に向かって「パパもやってごらん。ほら、触って、ママにすべすべだねっていうの」と言われた。
 
なんだか変な空気のまま、嫁の手を触り「すべすべだね」と伝えた。
 
嫁は「ああ、ありがと。。」と返事をしたが、どうにも不思議な感じ。
 
そもそも僕は嫁に「肌がすべすべだね」なんて言ったことない。
 
かれこれ付き合い始めから15年ほど経つがそんなこというのは初めてだ。
 
それを機に何かがほぐれた。家の空気が正常に戻ったのだ。
 
息子は、ぜんぶ分かってやっていたのだろうか。
 
仲裁してくれて、ありがたいけど、それにしてもすごいやつだ。
 
あとで嫁と「どこで覚えたんだろうねぇ」と話したけど、二人とも分からなかった。
 
末恐ろしい息子だ。

子どもにする昔話を自分流に演出してみた

半年ほど前から、子どもが寝る前に昔話をしている。
 
最初は桃太郎ばっかりだったが、最近は、鶴の恩返し、笠地蔵、シンデレラ、浦島太郎がラインナップに入っている。
 
とはいえ、毎晩のことなので、毎回同じように話すと、こちらも退屈してしまう。
 
そこで浦島太郎なら亀を助けるシーンをクローズアップしたり、鶴の恩返しなら、鶴が「見ないでください」っていうのを5回ぐらいやって、ダチョウ倶楽部の「絶対押すなよ」ぐらいに、分かりやすくしてから「やっと見る」という展開にしている。
 
これが意外と面白い。
 
子どもはもちろんだが、自分自身、次の展開をどうしようとか、今日はどこに着目しようなど、なんだか物語の演出家になったような気分で、色々と脚色できるのだ。
 
最近ハマっているのは、浦島太郎が戻ってきた時に、知っている人がいなくなっているシーン。
 
あそこを劇的に、切ない感じでやる。
 
「もう知っている人なんて一人もいないんだ、あ、そうだ、この箱を開ければ、みんな元に戻るかも、きっと夢だったんだ」とか言って箱を開けたら、やっぱりおじいちゃんになって、「さんざん楽しい時間を過ごしたバチが当たったんだ。。バタリ」とか、やったりしている。
 
これけっこうオススメな気がする。
 
この視点で見ると、もう全部の昔話が、台本みたいな感じになる。

どう演出するかは自分次第。そうなると、寝る前のお話も遣り甲斐がでるってもんだ。
 
ぜひお子さんがいる方は試してみてはいかがでしょうか。
 
さて、今日はシンデレラの魔女の方にスポットを当ててみようかなぁ。
 
ちなみに元にしている本は下の本です。これはいっぱい話が入っていておすすめ。

9ヵ月の子どもが僕の乳首を見てくる件について

9ヵ月の息子が、僕のTシャツをひっぱり、乳首を見て、ニヤニヤしている。
 
「やめなさい」と言って、元に戻しても、何度も何度もしつこくやってくる。
 
嫁は外出しているから、おっぱいが欲しいのかなと思って、乳首を吸わせようとするが、それはいらないらしい。吸おうとしない。
 
まさかと思って、手ぶらをやって、チラリとやったらやっぱりニヤニヤしている。
 
間違いない。僕の乳首が見たいんだ。
 
なんだろう、この不思議な感じ。
 
いままで価値が無いと思っていた、自分の乳首を見たがる人がいるなんて。
 
女の子ってこんな感じなのかな。
 
嬉しくって、チラリ、チラリと見せまくってしまった。

節分で暗黒舞踏をやったら子どもがビビりまくった話

昨日は節分だった。
 
子どもは朝から節分モード。
 
「おうちに鬼が来ないように、僕は保育園で鬼をやっつけるから、パパは会社で鬼をやっつけてね」と言われた。
 
僕は会社で誰に豆を投げればいいんだろう、と思いながら出社。手の中に豆を握り締めながら仕事をしていたが、嫁から「鬼待ちです」の連絡があり、いつもより早く帰宅する。
 
子どもはもう4歳。普通の「鬼だぞ~」では、もう怖がらないだろう。
 
そう思った僕は、帰りの電車で気持ち悪い動画を見ていた。
 
暗黒舞踏家・土方巽の動画だ。
 
土方巽とは、60年代アンダーグラウンドの伝説的な存在。三島由紀夫澁澤龍彦横尾忠則、この辺りとがっつり親交のあった人だ。
 
この人の踊りは、本当に独特だ。全身を白塗りにしてゆっくりと重力が無いような、人間にとってあり得ない動きをしている。
 
暗黒舞踏の創始者として、海外でも知られる存在でありながら、現在、メディアで取り上げられることはない。それはきっと気持ち悪いからだと思う。生理的な嫌悪感。それを想起させるのだ。
 
でも、この嫌悪感こそ僕の求めていたものだ。
 
ということで、節分にこれを取り入れることにした。
 
家に帰り、無言のままスーツを脱ぎ、すぐに黒いタイツと、黒い長そでに着替えて全身を真っ黒にする。
 
そして、後ろを向いて鬼のお面を被り、子どもの方を向いた。
 
体をグニャグニャとして、手も変な感じに曲げてみる。歩き方もゆっくりぎこちなくしてみた。
 
そしたら子どもがギャーギャー騒ぎ出した。いつもは「ママを守るよ」と言っているのに、ママを盾にして必死で豆を投げてくる。
 
そんなもんにひるまずに、今度は低い姿勢で土方をイメージしながら気持ち悪い動きを繰り返す。
 
もはや泣く寸前の子どもが、僕の付けていた鬼のお面をはぎとった。
 
「豆が当たったら、鬼はやられないとおかしいでしょ!」
 
確かにそうだった。舞踏に夢中になってポツポツと当たる豆のことをすっかり忘れていた。
 
その後は、うわ〜と普通にやられたふりをして玄関から逃げて、ドアを閉めて急いで黒い服を脱いでパンツ一丁で戻り、「あれ、いま鬼が逃げていったよ」と小芝居をして終わった。
 
子どもはアドレナリンが出まくったようで、大満足。
 
「鬼は明日も来るかなぁ」と言っていた。
 
今年の節分は大成功だった。
 
みなさんもぜひ節分に暗黒舞踏を取り入れてみてはいかがだろうか。
 
なお、土方の踊りは下記です。興味のある人だけ見てください。
 


A Girl Tatsumi Hijikata Medium

サッカーリオ五輪代表をオリンピックに導いた信じる力

今日はサッカーリオ五輪の話。

今回、最終予選を全部見たけど「日本強いな~」という試合は一試合も無かった。

弱いとは思わなかったけど、全部なんとか勝った感じ。それでも日本は出場権を獲得した。

 なぜ日本は勝てたのか?

それを今日一日考えていたけど、その理由はきっと監督が選手を「信じていた」からだと思う。

そんな単純なことで・・・と思うかもしれないが実はこれが若年層にはけっこう影響が大きいのである。

信じることで子どもは自然と伸びていく


こないだ子育てにおける褒めの大切さについて書かれた本を読んだ。

その中にこんなエピソードが出てきた。

あるクラスに研究者と名乗る人物を派遣し、生徒に知能テストをさせて、その結果を先生にだけ告げる。このうち3名が優秀だと。

 約1年後、確かにその3名の成績は伸びていた。

しかし、実はその知能テストの結果はでたらめであり、その3名は他の生徒と同じ普通の生徒だった。

ではなぜ3人は伸びたのだろうか。それは周りの接し方が変わったからだ。

先生は彼らが天才だと信じた。そして、そのように扱ったのである。「おまえはできる子だ」「絶対に大丈夫だ」と。

そしたら、彼らは伸びたのである。

今回のリオ五輪代表について「絶対大丈夫」という評論家は存在しなかった。むしろ危機感だけを煽り続けた。

サッカーファンの評判も最悪だった。手応えを感じるような試合は一回もなかったと思う。 

チーム作りの過程の監督のインタビューをずっと読んでいたが、その姿勢は一度もぶれていなかった。チーム選考はうまくいっている、チームは前に進んでいると言い続けていたのだ。

最後の最後に選ぶべきだといわれた鎌田や関根などの有力選手を落選させ、クラブで結果が出ていなくても、自分が信じた選手を選んだ。

予選のスタメンにおいても「なぜ?」という選出があった。

準決勝で高さのあるDFの岩波を外したのもそうだ。

もちろん緻密な計算があったのだろう。

だが、それよりも監督が個々の選手の長所を最後まで信じたことが大きかったと思う。信じてあげれば、その子は期待に応えようと、どこまでも伸びるのだ。

ちなみにバカだ、バカだと言われれば、その子は「バカの振り」をして、いつしか本当にバカになってしまうという。

自分の子どもの可能性を信じきる

 

こないだ嫁と、子どもにサッカーをやらせるか、という話をした時に嫁が「きっと途中で辞めちゃうよ」という話をした。

いやいや日本代表になる、と僕は言った。実際のところは分からない。でも、親が子どもを信じなければ、子どもは絶対にその目標にたどりつけない。

才能というのは確かに存在する。

だが、それよりも意外と周りが信じること、自分が自分を信じることって重要である。

俺はお前たちを信じている、その明確なメッセージこそが、日本をオリンピックに導いたのではないだろうか。

保育園で息子がパパのちんちんの話をしないか心配だ

「いいか、保育園でパパのちんちんの話は禁止だよ、分かった?約束できる?」
 
子どもはニヤニヤと笑っている。
 
「分かったら、はーいは?」
 
「はーい!」
 
そういって子どもは保育園の中に入っていた。
 
不安だ。大丈夫かな。やつは本当に言わないんだろうか。
 
前に友達が「娘がパパはおならするって話を保育園でされて大変だったよ」という話を聞いて「こわいな~」と思ったことあるが、まさか自分のちんちん事情を保育園でばらされるとは。。
 
前回書いた記事は下記だ。
 
 
要するに、パパのちんちん大丈夫?ちんちん屋で新しいの買えば?と言われた、という話だ。
 
あの時、書かなかったことがある。
 
あれは出勤前の朝の話であり、玄関で子どもを抱き抱え、嫁と下の子とバイバイする時に、ふざけて「じゃあ、帰りに秋葉原のちんちん屋に寄って新しいの買ってくるわ」と言ってしまったのだ。
 
深く考えていたわけじゃない。なんとなく銀座だと高そうだし、新宿、渋谷はチャラそうで嫌だから、秋葉原かな、と思っただけだ。
 
その言葉を僕が抱きかかえていた子どもが聞いていたのだ。やつは世間知らずであり、「お菓子買ってあげる」などの言葉をしつこく覚えている人間なのだ。すっかり忘れていた。
 
その日、家に帰ると、子どもがニヤニヤしている。
 
「パパ、新しいちんちん買ってきた?どうなの?」と近づいてきた。
 
スーツを脱ぎ、ちょうどパンツ一丁になったタイミングで子どもが脱がそうと襲いかかってきた。
 
やばい。当たり前だが、ちんちんは朝とおなじやつだ。僕にとっては慣れ親しんだ、相棒のような存在だが、子どもに「パパのちんちん大丈夫?」と言われた、あのしょんぼりしたやつだ。
 
「やめろ!」と怒ったが、子どもにパンツをチラリと脱がされてしまった。
 
それを見た子どもは「え!パパの新しいちんちんかっこいいじゃん」と言ってくれたのだ。


まさか息子に「息子」を褒められる日が来るとは。。
 
話はここで終わったと思った。後日談としてブログに書くほどの破壊力は無いかな、と思って放置しといた話だ。
 
だが、昨日家に帰ると、衝撃的な話を聞かされた。
 
なんと息子が保育園の帰り道に、自分が仲良しの友達の、そのお母さんに「パパの新しいちんちんかっこいいんだよ!」と自慢した、というのだ。
 
そのお母さんも何がなんだか分からないので、仕方なく嫁が「パパのおちんちんを見た子どもが大丈夫?ちんちん屋に行けばと言って、パパが新しいちんちんを買ってくるよ、という話を昨日家でしたんですよ」と説明した、というのだ。
 
なんてこった。。。
 
もう色々と物語が入り組んでいる。そのお母さんもわけが分からないけど、深く聞くわけにもいかないから、後は想像でカバーするしかないだろう。
 
そして、そんなユニークなトピックス、そのお母さんがその日の食卓で話さないわけがない。そしたら、その子の父親が「おいおい、大丈夫かよ、そのちんちん」ってなって。。。
 
もう自分のことは何を言われても構わない。でも、「息子」のことを悪く言われるのは耐えられない。
 
だが、この汚名を払拭しようにも、「安心してください。僕のちんちんは大丈夫ですよ」と、とにかく明るい安村みたいに、そのお母さんに言うわけにもいかない。
 
オッケー。そのお母さんは諦めよう。毎朝会うけど。きっと心の中で「この人のちんちんは大丈夫なのかしら?」と思われてても諦めよう。
 
問題は「拡散だ」。噂は広まる。すごい早さで。
 
それでいて、その噂が間違っていることを証明するためには、保育園の先生、そして、お母さん方の前で「息子」をお見せするしかない。それは無理だ。
 
だめだ。完全に袋小路だ。
 
人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」。不幸だと思っても良いことはあるはず。止まない雨は無いんだ。
 
とにかく今の僕は、息子がこれ以上、僕のちんちんの話題を広めないことを祈るばかりだ。
 
それにしても気になるのは、今朝絶対に言っちゃだめだよ、と伝えた時の子どものニヤニヤした顔だ。
 
やっちゃだめ、いっちゃだめ。これ全て前振り。それを破るから楽しい。僕の息子として、その精神が生きていればやつは今頃・・・。

ブログは「心のサードプレイス」になる

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2015年の11月27日にブログを始めてから約2ヵ月が経った。
 
アクセス数はアップダウンがありながら、右肩上がりで確実に増えている。

おかげさまで読者も59人となった。ありがたい限りだ。
 
あ、またあの人が読んでくれた、と感じることがすごく嬉しい。
 
その一方で、何万PV突破とか、収益が、とかいう記事に少し心がざわつく。いーなー、という気持ちもある。
 
そんなの関係無い、僕は書きたいことを書くだけだ、と思う一方で、果たして本音かな、と自問自答する時もある。
 
平静を保ちつつ、少しでもアクセス数が増えればいいな、という気持ちから、今日も更新している。
 

Webは紙よりもずっと残る

 
僕が初めて就職したのは町の新聞記者だった。そこから15年、ずっと紙の編集に携わっている。
 
まだまだ胸を張れるほど立派なことを成し遂げてはいないが、仲間たちが、畳職人になったり、ぶどう農家になっていく中で、いまも前線に立ち続けている。
 
それでいま改めて思うのが、僕が最初の頃に作った新聞なんて、すでに休刊となり、紙としては残っていないし、誰も読んでいない、という事実だ。
 
それでいながら、その記者時代に、文章修業のつもりで書いていたホームページの記事は、今も多くの人に読まれており、去年は15年越しに、はてなブックマークのホットエントリーに入ったりしている(一体何があったんだろう)。
 
つまり、Webの文章は紙よりもずっと残るし、検索システムによって新たな読者も生み続けているのだ。
 
そのことに気付いた時、ブログを書いてみようと思った。自分の記録、子育ての記録を残しておこうと。
 
ちなみにこのブログは家族や友人には教えていない。死んだ時には、発見されるかな、それはそれで良いと思う。
 
僕は自分の父親が僕を育てる時に、どんなことを考えて育てていたか知らないけど、少なくとも僕の息子たちは、このブログを読めば僕が何を考えていたのかは分かるはずだ。
 
そう、Webは紙よりも残るのだ。サービスが終わらない限り。
 
前のホームページは読みづらくなっているので、せっかくだから、すこしずつ15年前の文章を改修して、こちらに移そうと思う。まだいまでも読める物もいくつかあるので。
 

ブログが心のサードプレイスになっている

 

さて、そういう動機でブログを書き続けて、ひとつ分かったことがある。
 
それは、このブログが僕にとって「心のサードプレイス」になっている、ということだ。
 
子どもが生まれた時によく「自分の時間が無くなるよ」と先輩方に言われたが、それは事実だった。自分の場所も時間もない。座っていれば、子どもたちが寄ってきて、絵本を持ってくるから読んであげなきゃいけない。
 
それは別にいいけど、そのために嫁も僕も子どもの相手に忙殺されて、雑談というか、何気ない会話が減り、業務連絡が増えてしまった。
 
その日常会話からこぼれ落ちた、ささいな出来事や思いつきがある。それらは最初の子どもが生まれた4年前から、マグマのようにずっと地中にいた。だが、そこには出口がなかった。ブログを作って、それを言葉にして置いておくだけで、誰かが見てくれる。それだけで本当に色々とスッキリするのだ。
 
それはきっと「心のサードプレイス」と呼んでいいと思う(場所じゃないけど)。くつろげる空間というか、そういう存在になっている。だからきっと僕はペースが落ちたとしても書き続けると思う。この空間を維持するために。
 

人は本の内容を完璧に覚えていない

 人は本を読むが誰も中身を完璧に覚えていない。この事実はけっこう愕然とするものがある。最近、真田丸の予習のために司馬遼太郎の『城塞』を読み直したら、あんまりに真田幸村が出てこなくてびっくりした。
 
ぜんぜん違う形で記憶に残っていたのだ。本なんて読んでも忘れてしまう。だったら、本なんて読まなくてもいいじゃないか。そう思う時もある。
 
でも、自分の心の何かと共鳴した時に、その本は鮮烈に心に残る。例え記憶していなくても、印象としてその熱は心に残るのだ。
 
僕がブログでやりたいのは、そっちである。「いつか使える」と思って多くのブックマークを得たけども、結局は使われない情報よりも、心の熱を伝える。
 
後から読み返してもらえなくてもいいので、ふと読んだ時に、何か心がちょっとだけ温かくなるような文章。そういう物を書き続けていければと思う。
 
まだまだ立ち上げたばかりの未熟なブログだが、これからもご愛読よろしくお願いします。
 

ちんちん屋はいつかできるのだろうか?

うちには4歳と9カ月の二人の男の子がいる。
 
おむつを変えたり、お風呂に入ったりと、何かと二人のちんちんを見る機会がある。
 
それはもう、かわいいものだ。
 
ふわふわと泡立てた石鹸の先っぽのように、ちょこんとしている。
 
色だって真っ白だ。そんなのが2本うちにはある。
 
さてさて、今朝の話。
 
僕が朝のシャワーを浴びて、体を拭いていると、上の子が覗き込んできた。
 
やたらと僕の股間を見てくる。
なんだろうと思ったら、こんなことを言いやがった。
 
「パパのちんちんは梅干しみたいだね」
 
もう止めてほしい。。。。
 
確かに自慢できるものではないし、君たちのようにスベスベしていない。そいつが大人ってものだ。
 
「ね~パパ、大丈夫?おちんちん屋さんに行けば?
 
え、なにそれ。
 
「新しいの買ってくれば?」
 
なんなんだよ、まったく。嫁も大笑いして、そうだ、そうだ、とか言ってる。やめてほしい。
 
リビングに行くと、ちょうどテレビの「あさイチ」では、再生医療の特集をやっていた。色々な臓器が再生医療で蘇るそうだ。
 
ちょっとまて。そうなれば、いつか「ちんちん屋」もできるのだろうか。
 
それがオープンしたら、絶対に行く。 その時、僕はケチケチなんてしない。
 
「こっちの方が、いや、こっちは1万円高いのか、、」なんて言わない。
 
店員に「そちらはお客様にはややオーバースペックでは?」と言われようが、なんだろうが、一番いいやつを買ってやる!!いつかそいつを身につけるんだ!
 
 
 
・・・あれ、少し涙が出てきた。なんでだろう。。。
 
 

SMAPの会見を子持ちサラリーマンはどう見たか

建築家やデザイナー、カメラマンなど30~40代の男でスキル系の仕事をしていれば、「独立」を考えない人間はいない。必ず一度は考えるはずだ。
 
踏みとどまって会社に残るか、独立するか、その際のポイントとなるのが、結婚しているのか、子どもがいるのか、だと思う。

さて、昨日のSMAPの会見。色々な見方があると思う。

一つは人はどこまで恩で動くか、というものだと思う。
 
SMAPはこれまでたくさんの問題を起こしてきた。
 
草なぎくんの全裸事件とか、稲垣吾朗の「稲垣メンバー事件」とか、中居くんだって、何度か女性問題を起こしている。
 
その時に動いたのが、今回話題となったマネージャーである。
 
であれば、その「恩」をもとに、4人が独立について行こうとした、というのは納得できる。共感しやすいストーリーだ。
 
一方で、キムタクだけが残った。その理由は、結局のところ、家族がいたからだろう。

他の四人には家族はいない。キムタクだけが結婚しているのだ。
 
これは大きい。正直、家族がいない人に、家族がいる男の荷の重さを理解してもらうのは難しいと思う。だからこそ、キムタクと他の4人の差は埋まらず、会見のあの表情になった気がする。
 
長いものに巻かれた、ともいえるキムタクの判断だが、家族がいる人間からすると、「そうだよな、家族に『独立してやっていく保障あるの!!』と言われたらおしまいだよな」と思ってしまう。
 
キムタクは「給料をもらっているのは副社長」と発言したと伝えられているが、そのセリフを吐いた時点で、アイドルではなく、サラリーマンだなと思ってしまう。
 
身近なイメージでいえば、お世話になった先輩が独立するから、と大企業を辞めるのかと。しかも、独立後、その大企業がじゃんじゃん圧力をかけてくることが目に見えていると。
 
そりゃ、独身ならチャレンジするけど、妻子もちには辛い決断だ。
 
ということで、子持ちのサラリーマンなら、キムタクに共感できるが、一方でSMAPをこれからアイドルとして応援できるか、というと難しい気持ちになってしまう。
 
ネットを見たところ、こういう視点があまり無かったので、書いてみた。

まぁ正解なんて無いけど、残されたマネージャーのことを考えると、まだまだ消化不良だよな、と思う。

子どもが泣く満員電車で男性の一言に救われた話

 
今朝の雪のせいで最寄り駅は大混雑。
 
都心に向かうホームは人がぎっしりで降りれない状態だったので、反対方面に回って会社を目指す。
 
それでも電車は混雑している。そんな中で小さな女の子の「痛いよ~痛いよ~」という声が少し離れたところから聞こえてくる。
 
母親の声は聞こえない。

ただ時間が過ぎて、早く到着することだけを願っているのだろう。周りも同じ気持ちだった。

それでもなかなか電車は進まず、駅について人が乗ってくると、その度に子どもの「痛いよ~」の声が聞こえてくる。
 
正直、嫌な予感がしていた。
 
ガラの悪いおっさんが「うるさい!」と怒りださないか、心配になってきた。みんなイライラしているのだ。

このまま時が過ぎてくれ。そう願っていた時、一人の男性が声を発した。
 
「子どもが痛がっています。どなたか席を譲ってくれませんか?」
 
その声に応じて、誰かが立ってくれて、おかげでその子は座ることができた。
 
僕はだいぶ間を隔てていたので、横顔がチラリを見えたぐらいだが、きっと子どもがいる人なのだろう、スーツを着たサラリーマンだった。
 
僕は電車に揺られながら、自分なら同じことが言えただろうか、と考えてしまった。
 
きっと言えなかったと思う。そう呼びかける発想すら無かった。
 
でも、その人だって、そんなアイディアを事前に用意していたわけでも無い。もっといえば、声をかけても誰も立ち上がってくれない可能性もあった。
 
それでも「この子のために何かできないか」を必死で考えて、勇気を出して声を出したのだろう。
 
すごい。すばらしい。ああいう男に私もなりたい。
 
今日は寒い日だったけど、何か心に温かいものが残った一日だった。